改暦で月給を二か月分払わずに済んだ

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四月始まりの年度は赤字の帳尻合わせだった 第2章

第1章では、国の会計年度の始まりが10月、1月、7月、4月と移り変わったことを見ました。このうち明治6年からの1月始まりは、暦が改められた時期と重なります。

国立天文台暦計算室の暦Wikiによると、会計年度が10月から9月までの形から1月から12月までの形に改められたのは、この改暦にともなうものでした。その移行の取り決めができたのは、新しい年を目前にしてからだったといいます。では、改暦そのものはなぜそれほど慌ただしく決まったのでしょうか。

国立公文書館の「日本のあゆみ」によると、明治5年(1872)11月9日に、太陰暦をやめて太陽暦を採用するという詔書が出されました。その内容は太政官布告第337号として公布されています。

この布告で、1年は365日で12か月、4年に一度は閏年を置くことになりました。1日を24時間とすることも定められました。そして旧暦の明治5年12月3日が、新暦の明治6年1月1日になりました。

詔書には、改暦の理由も書かれています。月の満ち欠けで月を数える旧来の暦では、2、3年おきに閏月を入れる必要がありました。そのせいで季節の訪れが年によって早くなったり遅くなったりした、というのが詔書の説明です。

太陽暦なら季節がずれることはなく、閏は4年ごとに1日加えるだけで済みます。詔書は、太陽暦を太陰暦と比べてもっとも精密な暦だとしています。表向きの理由は、暦としての正確さだったわけです。

けれども、この改暦はあまりにも急でした。暦Wikiによると、旧暦で作った正式な明治6年の暦はすでに売り出されていました。布告から新年までは20日あまりしかなく、解説は千年以上使われてきた暦をそれだけの日数でやめるのを無謀な話だと評しています。

改暦を主張する人はそれまでにもいました。ただ、暦は社会への影響が大きく、なかなか実現しなかったそうです。

それでも改暦に踏み切った理由として、暦Wikiは『大隈伯昔日譚』を挙げています。大学図書館の目録であるCiNiiでは、この本は大隈重信が語った話を円城寺清がまとめたものとされています。つまり、大隈本人の回想です。

暦Wikiによれば、その『大隈伯昔日譚』に、改暦を急いだ理由は財政の問題にあったと記されています。政府は明治4年に月給制を取り入れていました。旧暦のままだと明治6年には閏月が入って1年が13か月になり、月給を1か月分余計に払わなければなりませんでした。

太陽暦に切り替えれば閏月がなくなり、その1か月分は要らなくなります。暦Wikiはさらに、布告第374号で2日しかない明治5年12月の分も払わないことにしたと説明しています。合わせて2か月分の給料を節約したことになります。

ただし、お金が理由だったという話は、あくまで大隈の回想に記されたものです。詔書が掲げたのは暦の精密さでした。改暦の理由が財政だけだったとは言い切れませんが、大隈の回想に従えば、国の台所事情が改暦を急がせた事情の一つだったことになります。

1月始まりになった年度は、このあと7月始まりを経て4月始まりへ移ります。次の章では、その4月始まりにも国のお金の事情が関わっていたことを見ていきます。

参考:国立天文台暦計算室 暦Wiki「明治維新と太陽暦」/国立公文書館「日本のあゆみ 明治5年(1872)11月 太陽暦が採用される」/e-Gov法令検索「明治五年太政官布告第三百三十七号(改暦ノ布告)」/CiNii Books「大隈伯昔日譚」

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