午前三時、健太は豆を水から上げる。前の晩から水に浸けておいた大豆は、ふっくらとふくらんでいて、ひと粒を指でつぶすと、中までよく水が通っていた。石臼にかけてすりつぶし、できた白い呉(ご)を大釜で煮ると、湯気が真っ白な塊になって、作業場いっぱいに広がっていく。六十年、この作業を祖父が、父が、そして健太が繰り返してきた。けれどこの月で、店を閉める。健太はすでにそう決めていた。
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理由はいくつもあった。豆の値段は年ごとに上がり、近所のスーパーでは豆腐が驚くほど安く売られている。父が亡くなって三年、一人で続けてきたけれど、体のほうがもたなくなってきた。誰にもまだ言っておらず、閉店の貼り紙は、レジの引き出しの中にしまってある。
午前五時、シャッターを半分上げると、外はまだ暗く、冷たい空気が湯気とまじって、ふわっと店内に流れこんだ。そのとき、いつものように、からんと音がして、一人の老女が入ってきた。
「おはようございます、健太さん」
八十を過ぎたトシ江さんだ。毎朝いちばんにやって来て、木綿豆腐をひとつと、油揚げをふたつ買っていく。もう二十年以上、変わらない。
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トシ江さんは豆腐を袋に入れてもらう間、レジの前で世間話をする。今朝は孫が受験だという話だった。
「うちの孫がね、この豆腐がいちばん好きだって。東京の大学に行っても、帰ってきたら食べたいって」
健太は手を止めた。胸の奥がちくりと痛んだ。
「……そうですか。それは、うれしいです」
トシ江さんはふと、健太の顔をじっと見つめた。
「どうしたの。顔色が悪いわよ」
健太は笑ってごまかそうとしたけれど、言葉が出てこなかった。気づくと、レジの引き出しを開けて、あの貼り紙を取り出していた。
「実は、今月で店を閉めようと思っているんです」
トシ江さんは黙って貼り紙を見つめて、しばらくして、小さくうなずいた。
「そう。……さびしくなるわねえ」
「すみません。長いあいだ、ありがとうございました」
トシ江さんは首を振って、買い物かごから古い手帳を取り出した。表紙はすり切れている。
「これね、あなたのお父さんが元気だったころに書いてくれたの。毎朝、豆腐を買うたびにひと言ずつ」
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手帳をめくると、日付と短い文がびっしり並んでいた。
今朝の豆は特においしい。 大豆の産地を変えてみました。 今日は雪。足もとに気をつけて。 お孫さん、受験がんばれと伝えてください。
父の字だった。丁寧で、ちょっと不器用な、父の字。健太は目の奥が熱くなった。
「あの人が、毎朝、豆腐といっしょに言葉もくれたの。だからわたしは二十年通い続けたのよ」
トシ江さんは手帳を閉じて、レジの前に一歩近づいた。
「もしまだ続けられる気持ちがあるなら、わたしはうれしい。でも無理はしなくていいの。あなたの人生だから」
健太は貼り紙を両手で握って、それから折りたたんで、ポケットに入れた。
「トシ江さん。今月は閉めません。もう少しだけ続けてみます」
「あら、そう?」
「はい。お孫さんが東京から帰ってきたときに、食べられるように」
トシ江さんの顔がぱっと明るくなった。
「ありがとう、健太さん」
作業場の釜から白い湯気が立ちのぼり、夜明けの光が窓から差しこみ始めた。その朝、健太はトシ江さんの手帳の新しいページに、ひと言を書き込んだ。
今朝の豆は、きのうより少しだけ甘いです。
