ほんとうの名前

秋の日の縁側に置かれた二つの湯のみと、庭の柿の木。

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祖父は、私のことを「ミドリ」と呼ぶ。私の名前は真琴で、ミドリではない。祖父が最初にそう呼んだのは、半年前、夏の終わりだった。病院の帰り道、後部座席の祖父が窓の外を見ながら、ふいに言った。

「ミドリ、今日はいい天気だな」

運転席の母が、バックミラー越しに私を見た。私は小さく首を横に振った。訂正はしなくていい、とお医者さんにも言われていた。祖父は八十六歳で、軽い認知症だった。昨日の晩ご飯は忘れても、昔の歌はきれいに歌う。そしてときどき、私を見知らぬ名前で呼んだ。

*

「ミドリって、誰なんだろうね」

母に尋ねると、母も首をかしげた。

「聞いたことない。おばあちゃんは静江だし、妹さんもいなかったと思う」

祖母は十年前に亡くなっていて、祖父はそれから、庭の手入れと碁と古い歌だけを頼りに暮らしてきた。ミドリという名前がどこから来たのか、誰も知らなかった。気になって仕方がなかった私は、ある週末、祖父の家へ行って、物置の整理を手伝うふりをしながら古い箱をひとつずつ開けてみた。

三つ目の錆びた缶の中から、紐でしばった手紙の束が出てきた。宛名はすべて同じ「ミドリ様」で、差出人は「清」、祖父の名前だ。けれど手紙はどれも投函されておらず、切手も貼られないまま、封は閉じられていた。日付は昭和三十年代のある数年間に集中していて、祖父が二十代のころだった。

*

私はいちばん上の封筒を開けた。祖父の几帳面で少し角ばった字が、便せんに並んでいる。

ミドリ様。寒くなりました。あなたの住む町にも雪は降りましたか。ぼくは毎晩、仕事のあとに、あなたの好きだった歌を口ずさんでいます。

読み進めるうちに分かってきた。ミドリさんは、祖父が若いころに好きだった人で、二人は結婚の約束をしていたのに、ミドリさんの家の事情で、遠い町へ引っ越していったのだ。祖父は手紙を書いた。書いて、書いて、それでもどれも出せなかったのは、住所を知らなかったからだ。最後の手紙は、昭和三十七年の春の日付だった。

ミドリ様。ぼくは結婚することになりました。相手は静江さんという、やさしい人です。あなたを忘れたわけではありません。でも、ぼくはこれから静江さんと生きていきます。どうかあなたも、幸せでいてください。もう、手紙は書きません。

私は手紙を胸に抱いた。祖父は五十年以上、この手紙を缶に入れて持ちつづけていたのだ。

*

次の日曜日、私は祖父の隣に座った。縁側には秋の日がやわらかく差していて、祖父は庭の柿の木をぼんやり眺めていた。

「ミドリ、お茶を淹れてくれるか」

「はい」

私は台所でお湯を沸かして、湯のみを二つ盆にのせ、縁側へ戻った。祖父は湯のみを両手で包んで、ひと口すすった。

「うまいな。ミドリの淹れるお茶は、いつもうまい」

「ありがとう」

祖父はしばらく黙っていて、それから遠くを見たまま、ぽつりと言った。

「手紙、読んだかい」

心臓が跳ねた。祖父はゆっくりこちらを向いた。目は少し潤んでいたけれど、その奥にははっきりと光があった。

「あれは、ずっと出せなかった。だから今、ここで言ってもいいだろうか」

私がうなずくと、祖父は深く息を吸って言った。

「ありがとう。あなたに会えて、ぼくは幸せだった」

涙が頬を伝った。私はミドリではないけれど、その言葉は、確かに五十年前の誰かへ届いたのだと思った。庭の柿の木から、一枚の葉がひらりと落ちて、祖父は満足そうに目を閉じた。

「ミドリ、今日はいい天気だな」

私は湯のみを持ったまま、ほほえんだ。

「はい。いい天気です」

その日から、私は祖父が私をなんと呼んでも否定しないことにした。本当の名前は、呼ばれる人の側ではなく、呼ぶ人の心の中にあるのかもしれない。

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