駅の裏手にある喫茶店「ふくろう」は、開店して四十年になる。常連の千尋は週に三度、窓際の席でブレンドコーヒーを飲みながら文庫本を読む。半年ほど前から、千尋は不思議なことに気づいていた。月に一度だけ、店の入口の黒板に、見慣れない一品が書き加えられるのだ。「ナポリタン(特製)」「レモンパイ」「ココアプリン」。どれもメニュー表には載っていなくて、その日が過ぎると、黒板からきれいに消えている。
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千尋は手帳に日付を書きとめていった。一回目は四月十二日、二回目は五月九日、三回目は六月二十日。間隔はまちまちだ。マスターにさりげなく聞いてみると、カップを拭きながら笑って答えた。
「まあ、新しいメニューを試しているようなものです」
はぐらかされた、と思ったけれど、深追いはせずに、手帳にもうひとつ記録を足した。その日の天気だ。四月十二日は雨、五月九日はくもり、六月二十日は雨。ほかの日は晴れが多かったから、特別メニューが出るのは、雨かくもりの日らしい。しかも、よく見ると、客がいちばん少ない日ばかりだった。
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七月の梅雨明け前の夕方、入口の黒板に新しい一品が書かれていた。「ミルクセーキ(お子さま向け)」。千尋が窓際の席から様子を見ていると、傘をさした小学生の男の子が一人で店に入ってきた。
「ミルクセーキ、ください」
マスターはうなずいてグラスにミルクセーキを注ぎ、男の子はストローでちびちびと飲みながら、ランドセルから算数のドリルを出して宿題を始めた。ここは、雨の日に行き場のない子どもの居場所になっているのだ、と千尋は気づいた。
会計のとき、男の子はがま口からお金を出そうとして、マスターに手を振られた。
「今日はおごりだよ。雨の日のミルクセーキは、お客さんへのサービスなんだ」
男の子がぺこりと頭を下げて店を出ていくと、千尋はカウンターに近づいた。
「特別メニューは、あの子のためでしたか」
マスターは少し照れて、頭をかいた。
「いやいや。ただ、雨の日はお客が少なくてね。誰かのために何か出したくなるんですよ。常連のあなたにも、実は前回のレモンパイをこっそりサービスしていたんですが」
千尋は思わず笑ってしまった。確かに五月九日のレモンパイは、会計のとき「今日はお代はけっこう」と言われたのだった。
「じゃあ、今日はわたしが払います」
千尋はミルクセーキの代金をカウンターに置いた。
「あの子の分です」
マスターはゆっくりうなずいた。次の雨の日の黒板には、きっとまた新しい一品が増えるのだろう。
