日本標準時は東経百三十五度 第2章
書名の「百三十五」は、座標の住所だけではない。時間の差の言葉にも翻訳できる。地球が二十四時間で一回転するとすれば、三百六十度を二十四で割る。十五度がおよそ一時間だ。東経百三十五度を十五で割ると九になる。本初子午線の側から見れば、九時間進む位置だ。情報通信研究機構(NICT)の日本標準時の説明も、同じ算数を冒頭に置く。感覚は「日本は九時間進んでいる」と覚える。制度の地図は、十五度で一時間だから、という割り算が先にある。覚え方の九と、単位の十五は、どちらも同じ地図の部品だ。九は結果だ。十五が単位だ。百三十五はその積に見える。住所の数字と、時差の数字は、割り算でつながる。九時間という言い方が先に立つと、十五度が見えなくなる。単位を戻すと、住所がまた見える。百三十五を十五で割る作業は、短い。答えは端数のない九で止まる。九時間進む、という言い方は、その答えの言い換えだ。
いまの枠組みでは、基準の時系は協定世界時(UTC)だ。日本の標準時は、そのUTCから九時間進めた時刻として読める。グリニッジを本初子午線とした国際的な流れのあとに、経度と時差の対応がこの読み方でつながる。百三十五という数字は、九という数字に落ちる。住所の経線が、時差の九時間になる。同じいまでも、東側では針が進み、西側では遅れる、という感覚の言い方がある。標準時の側は、その進みを十五度刻みの算術で固定する。他の国の例外を並べて表にする必要はない。ここでは日本の百三十五と九だけを見る。一覧表は要らない。一本の割り算で地図は足りる。政治の線引きや夏時間の是非は、この割り算の外にある。核は単位と商の二つだ。経度が時間に変わるとき、変わるのは単位の読み方だ。針の進みは、割り算のあとに来る。UTCに九を足す、という実務の言い方も、同じ九に戻る。足し算の九は、割り算の九と同じ数字だ。経路が違っても、到着は同じ九だ。数字は一つの九に収束する。
うるう秒のように、時系を微調整する仕組みもある。割り算の核からは外れる。核は三百六十と二十四、百三十五と十五だ。三百六十割る二十四は十五。百三十五割る十五は九。書名の数字が、九時間進む、という読み方に変わる。時計の針が示すいまは、その九時間の先にある。十五度で一時間だから、九時間進む。百三十五は、九時間に翻訳される。座標の住所が、時差の言葉になる。住所を忘れなければ、九の意味は崩れない。書名の百三十五は、九時間の入り口でもある。住所を時間に読む、その短い翻訳が書名の数字の中にある。
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