八っつぁんの借り物

江戸時代の長屋の一間。畳の上に空の米櫃、壁に掛かった藍の半纏、囲炉裏の鉄瓶から湯気。障子の外は午後の路地と物干し。人物は描かない。文字は描かない。

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世の中、貸し借りの話ほど身につまされるものはございません。貸した方は覚えていて、借りた方は忘れている。これが世の常でございます。

傘なんぞは、もう戻ってきたためしがない。長屋の傘は回り回って、どこの誰が持っているやら分からない。傘の方でも、自分の持ち主が誰だったか忘れておりましょう。

本日は、そんな貸し借りにまつわる長屋のお笑いを一席。

*

八「熊さん、頼む。今月どうにもならねえんだ。ちょいと金を貸してくんな」

熊「駄目だ。金は貸さねえ。これは前から決めてる」

八「そこを何とか」

熊「その代わりだ。八っつぁん、うちにある物なら何でも一つだけ貸してやる。持ってけ」

八「何でも一つ。そいつは気前がいいね」

熊「ただし返すんだぞ。借りた物は返す。当たり前だ」

八っつぁんは腕を組んで、熊さんの部屋をじろじろ見回します。

八「じゃあ米櫃を借りよう。中身ごとだ」

熊「中身は米だろう。それは食ったら返せねえ。空の櫃ならいいぞ」

八「空じゃ意味がねえ。待てよ、布団はどうだ」

熊「布団は俺が寝る。おめえ、昼間だけ借りてどうする」

八「昼寝をする」

熊「自分の家でしろ」

八「そうか。じゃあ、あの鉄瓶」

熊「鉄瓶はいいが、湯が入ってるぜ。持つなら火傷するな」

八「やめた。熊さん、ほかに何かねえのか」

熊「そこの壁に掛かってる半纏はどうだ。寒くなる頃だろう」

八「半纏か。悪くねえ。でも借りたらおめえが寒いだろう」

熊「俺は着物をもう一枚着る」

八「それなら、おめえが損をするだけじゃねえか。気が引けるよ」

熊「だったら何を借りるんだ。早く決めろ」

八っつぁんはしばらく黙って考え込み、ぽんと膝を打ちました。

八「決めた。熊さん、おめえの『顔』を貸してくれ」

熊「顔だと。俺の顔をどうする」

八「この前、大家さんに家賃を待ってもらおうとしたら、おめえの顔を立てて待ってやる、と言ってたじゃねえか。だから顔を借りてえ」

熊「そりゃ、顔が立つという話だ。顔そのものは貸せねえ」

八「何でもと言ったろう」

熊「言った。だが顔は外せねえ。分かった、貸してやる」

熊さんは困った顔をしながら、しぶしぶ頷きました。

八「ありがてえ。じゃあ、ちょいと外してくんな」

熊「外せるか馬鹿」

*

八っつぁんは熊さんの顔を借りたつもりで、さっそく大家さんのところへ出かけました。

八「大家さん、熊さんの顔を借りてきました」

大家「ほう、どれ。見せてごらん」

八「いえ、今はここにありません。熊さんがつけたままでして」

大家「それは借りたとは言わないよ」

八「へえ。じゃあ顔が立つ、ってのは」

大家「顔は借り物でも、面の皮はおまえさんの自前のようだね」

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