会社の近くの老舗の蕎麦屋は、昼どきになるとすぐに満席になる。四人がけのテーブルがいくつかあって、席が足りなくなると、店の人が「相席でお願いします」と声をかける。わたしは毎日、昼にその店へ通っていた。いつのまにか気づいていたのは、三日に一度は、同じ人と相席になることだった。
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その人は三十歳くらいの背の高い男性で、いつもざる蕎麦の大盛りを頼む。箸の持ち方がきれいで、蕎麦を音を立てずにすする。わたしはその様子を、さりげなくちらちらと眺めていた。会話は一度もしたことがなく、向かい合って座っても、お互いに軽く会釈をするだけだったけれど、毎回、少しうれしかった。
ある日、いつものように相席になって、注文を終えて水を飲んでいると、向かいの席から声がした。
「あの、いつも同じメニューですね」
わたしは顔を上げた。男性は少し照れたように笑っている。
「天ぷら蕎麦の小盛り。毎回、海老を最後まで残しているでしょう」
顔がかっと熱くなった。見られていたのだ。
「好きなものは、最後にとっておく主義で」
「ぼくも同じです。大盛りは、最後のひと口までおいしくいただきたいので」
二人で小さく笑った。ぎこちなくて、ちょっとくすぐったい笑いだった。
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それから、相席になるたびに少しずつ話すようになった。仕事のこと、休日のこと、好きな食べ物のこと。名前はまだ知らないのに、昼休みの三十分だけ、二人の時間はゆっくり流れた。
秋が深まったある日、店に入ると、いつもの席が空いていて、向かいの席には誰もいなかった。わたしは一人で蕎麦を食べて、味が少し薄く感じた。会計を済ませて店を出ようとしたとき、店の人が呼び止めた。
「お客さん、ちょっとこれ」
手渡されたのは、折りたたまれた紙だった。広げると、ボールペンで短い文章が書かれている。
明日から出張で、一週間来られません。戻ったら、また相席してください。名前は、そのときに教えてください。
わたしは紙をそっと胸に抱いた。店の外に出ると、秋の空が高く澄んでいた。一週間後、いつもの蕎麦屋のいつもの席に、わたしは先に座っていた。引き戸が開いて、見慣れた顔がわたしを見つけて、口もとをゆるめた。
「ただいま」
わたしは立ち上がって言った。
「お帰りなさい。それと、はじめまして。わたしは遥です」
