引っ越し屋のアルバイトを、六年やっている。段ボールを積んで階段を上がり、家具を運ぶ。体力仕事に見えるけれど、本当は人間観察の仕事だと思う。荷物には、その人の暮らしがぜんぶ出るからだ。本が多い人、靴が多い人、観葉植物を五十鉢持っている人、調理器具だけがやたらと立派な人。段ボールを開けなくても、箱の重さと持ったときの音で、だいたい分かる。
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その日の依頼人は、八十歳くらいの小柄なおばあさんだった。三十年住んだ団地から、息子さんの家の近くの小さなアパートへ移るのだという。荷物は驚くほど少なくて、布団と箪笥とちゃぶ台、台所用品がひと箱だけだった。
「これだけで、いいんですか」
俺が聞くと、おばあさんはにこにこ笑った。
「ええ。いらないものは、ぜんぶ手放しました。でもね、ひとつだけ大事なものがあるの」
おばあさんが押し入れの奥から取り出したのは、古びた黒い電話機だった。ダイヤル式の固定電話。
「この電話だけは運んでほしいんです。もう、線はつながっていないけれど」
俺は電話機を毛布で包んだ。何か大切な思い出が詰まっているのだろうと思った。
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新しいアパートに着いて荷物を運び入れ、最後に、電話機をちゃぶ台の上に置いた。おばあさんはしばらく電話機を見つめていた。
「実はね、この電話、亡くなった主人が毎日会社からかけてきた電話なの。『これから帰るよ』って。三十年、同じ時間に鳴りつづけた」
おばあさんは、ダイヤルを指でなぞった。
「主人がいなくなってから、電話は鳴らなくなった。でも、鳴らなくても、そこにあると安心するのよ」
俺は何も言えなかった。おばあさんはにっこり笑って続けた。
「でも今日からは、息子の家が近いから、新しい電話が鳴るかもしれないわね」
そのとき、おばあさんの携帯電話が鳴った。画面には「息子」の文字。おばあさんは嬉しそうに耳に当てた。
「もしもし。ええ、着いたわ。大丈夫よ」
俺は黙って玄関を出た。階段を降りるとき、背中から、おばあさんの弾んだ声が聞こえた。トラックのエンジンをかけながら思った。荷物は暮らしだ。そして暮らしは、誰かとつながっていることだ。
今日も俺は段ボールを運んでいる。次の現場は、どんな人の、どんな暮らしだろう。
