山あいの小さな温泉旅館「やまぶき荘」には、客室が十二しかない。ところが宿帳をめくると、毎年十月の初めの一晩だけ、「十三号室」という名前で予約が入っている。宿泊者の名は、毎回同じ「相沢」。若女将の志保は、今年初めてその宿帳を任された。先代の女将だった母が亡くなったからだ。
*
「十三号室って、どこにあるの」
志保が番頭の老人に聞くと、老人は黙って廊下の突き当たりを指さした。そこには、ふだん物置に使っている和室があった。
「毎年、あの部屋を整えます。布団を敷いて、お茶を用意して。それが先代の決まりでした」
志保は不思議に思いながらも、母の決まりに従うことにした。夕方、物置をきれいに片づけて布団を敷き、湯のみを二つ置いた。夜になっても客は来ず、「相沢」という名前の客は、誰も玄関をくぐらなかった。台所で老人と遅い夕食をとっていると、廊下のほうから、すうっとかすかな足音が聞こえて、老人が顔を上げた。
「来ましたね」
*
志保が廊下に出ると、突き当たりの十三号室の障子が、ほんのりと明るくなっていた。誰かが中にいる。障子をそっと開けると、部屋には誰もいなかったが、布団の枕もとに一通の古い手紙が置かれていて、差出人の名は「相沢」とあった。開くと、日付は四十年前だった。
やまぶき荘の皆さまへ。この宿で、妻と結婚式を挙げました。十月のあの晩、二人で過ごした部屋のあたたかさを、忘れません。毎年ここに戻ってきたいのですが、妻はもう旅に出られない身になりました。どうか、わたしの代わりに、あの部屋を毎年整えておいていただけませんか。
志保は息をひとつ詰めた。後ろから、老人が言った。
「相沢さんご夫妻は、この旅館が開業した晩の、最初のお客さまでした」
「その、ご夫妻は」
「ご主人は十年前に亡くなりました。奥さまは去年。……毎年十月の初めに、必ずお手紙が届きます。『今年も部屋をあたためておいてください』と」
*
志保は枕もとの湯のみを見つめた。二つ並んだ湯のみの、片方だけから湯気が立っている。誰が手紙を書いたのか。誰が足音を立てたのか。答えは分からず、ただ湯のみのかすかな温もりだけがそこにあった。志保は障子を静かに閉めて、廊下を、母と同じ歩幅で戻っていった。
来年の十月も、その次の十月も、この部屋を整えよう。物置ではなく、十三番目の客室として。
