陽菜が観測所に着任して四日目の朝、鍵を開けたのは五時だった。港を見下ろす丘の上の平屋で、ストーブにはやかんが載り、壁には町内放送用の古いマイクが掛かっている。天気の放送をAIから人の声に戻す、と役場が決めたのは今年の春のことだ。気象予報士の資格を取ったばかりの陽菜に、声の自信はなかった。
所長の宇田川は六十を過ぎていて、いつも奥の机で番茶を飲んでいる。机の端には、夜のうちに印字された細長い紙が一枚置かれていた。気圧や風向きの数字の下に、読み上げ用の文が三行ついている。誰が書いたのかと最初の日に訊くと、宇田川は湯呑みを持ったまま答えた。
「岡田さんのメモだ。前任のな。そのとおりに読めばいい」
それから三日、陽菜はメモのとおりに読んだ。北の風、海は凪、昼前から雲が出ますが雨にはなりません、という具合で、外れた日は一度もない。言い回しも妙に行き届いていて、「ご出漁の方は」と漁師に向けた一言が毎朝かならず入る。老練な人なのだろうと陽菜は思っていたし、紙が届く時刻がいつも四時五十分ちょうどなのも、几帳面な人柄だからだと受け取っていた。
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陽菜には、ここへ来てから決めた習慣が一つあった。入口の脇に灰色の低い棚があって、天板が冬でもほのかに温かいので、そこへ湯呑みを置くのだ。お茶が冷めにくいという理由だけで置き始めたものが、いつのまにか朝の最初の仕事になっていた。棚の隣には椅子が一脚あるが、いつも奥まで押し込まれたままで、誰かが座った跡はない。
四日目の放送を終えると、電話が鳴った。漁師の平井からだった。
「今朝もよかったよ。あんたの声で聞くと、船を出す気になる」
「ありがとうございます。原稿は岡田さんのですけど」
「ああ、岡田さんな。あれが外さないから、うちの連中は文句も言えん」
平井はそう言って電話を切った。陽菜は受話器を置いてから、その言い方が少しおかしいと思った。外さない人のことを、平井はまるで毎朝そこにいる相手のように話す。
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昼過ぎに雨雲が通った。メモは「雨にはなりません」と書いていたのに、七分ほど、本当に降った。陽菜が窓から空を見ているあいだに、また紙が一枚、棚の上から細く吐き出された。
〈本日九時四十一分、雨を外しました。港の洗濯物に被害が出た可能性があります。訂正を午後の放送に入れてください。岡田〉
陽菜は紙を持って奥の机へ行った。宇田川は番茶の湯気の向こうで、顔を上げずに言った。
「入れてやれ。岡田は外すと、いつもそうだ」
「岡田さんは今、どちらにいらっしゃるんですか。お礼と、訂正の相談がしたくて」
宇田川は湯呑みを置き、顎の先で入口のほうを示した。陽菜がいつも湯呑みを載せている、灰色の棚だった。側面に、色の褪せたテープが貼ってある。〈岡田 三号機〉と、手書きの字で読めた。
「人の声に戻すと役場は言ったが、書くほうは戻してない。読むほうだけだ」
陽菜は棚を見た。緑色の小さな灯りが、静かに瞬いている。さっきまで置いていた湯呑みが、天板の上で薄く湯気を立てていた。
陽菜は湯呑みを両手で持ち上げ、少し迷ってから、棚の上に戻した。
