節分の由来と鬼やらい

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節分の本 第2章

第1章では、節分が立春の前日にあたることを見ました。この章では、節分に鬼を追い払う行事がどこから来たのかを、公的な資料からたどります。

国立国会図書館の「本の万華鏡」によると、鬼やらいの源流と言われるのは「追儺(ついな)」です。追儺は中国の「大儺(たいな)」という風習を取り入れたもので、日本では一年の病や疫病を追い払うため、大晦日の夜に行われていました。

はじめは、神の姿をした方相氏と呼ばれる役が、目に見えない病の鬼を払う行事だったそうです。ところが平安時代の終わりごろには、追い払う側だった方相氏のほうが鬼に見立てられ、人々に追い出されるようになったと説明されています。桃の弓や葦の矢を使ったり、大声や鼓の音で鬼を退けたりする風習もあったと書かれています。

一方で、節分の行事はもともと鬼やらいとは別のものでした。同じ解説によると、節分という言葉は平安時代の貴族の日記にも見えます。当時の節分の儀式は、災害よけや長寿を願ってお経を読むもので、鬼を退ける目的ではなかったと見られています。

三重県の県史編さんの解説も、鬼やらいは鎌倉時代まで宮廷で大晦日の夜の行事だったと書いています。同じ解説によると、昔は立春を新しい年の始まりと考えていたため、節分は年を迎える大切な行事でした。

では、二つの行事はいつ重なったのでしょうか。国立国会図書館は、節分の儀式に豆打ちが加わった時期ははっきりしないとしています。そのうえで、南北朝時代には追儺の風習が節分に入り込み、「鬼は外、福は内」と唱えて豆を打っていたことが当時の記録からわかると紹介しています。公家や武家だけでなく、広く民間の行事になっていたとも書かれています。

三重県の解説は、京都では室町時代に、立春の前の夜に「鬼は外、福は内」と唱えて家ごとに豆をまく風習があったとしています。豆打ちが節分に結びついた時代の書き方は、資料によって違います。

二つが重なった背景には、暦の事情もあったようです。国立国会図書館によると、旧暦では新年を迎える前に立春が来ることもありました。正月の行事と節分の行事が混じり合った原因には、こうした暦の問題も関わっていると説明されています。

国立国会図書館は、もともと別の行事だった追儺と節分が、江戸時代にはすっかり一つになったとまとめています。三重県の解説も、江戸時代になって豆まきが迎春の厄払いとして各地の寺社や家庭に広まったと書いています。

豆を使う理由について、農林水産省は、霊力をもつといわれる豆で病や災いである鬼を払い、その豆を食べて力をもらうという考え方を挙げています。この考え方が、中国から伝わった古い鬼追いの行事である追儺と結びついて広がったとされます。

このように、鬼やらいはもとは大晦日の夜の行事で、節分の行事とは別に始まったものでした。それが立春の前日の節分と重なり、今の豆まきにつながっています。次の章では、節分になぜ豆をまくのかを取り上げます。

参考:国立国会図書館「本の万華鏡 第21回 大豆 第1章 節分と豆まき」/三重県「節分行事あれこれ 薄れる「年頭」感覚」/農林水産省「節分の日に豆をまくのは、どうしてですか。」

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