終電の一本前、二十三時四分発の下り電車に、わたしはいつも乗っている。座るのは右から二番目、ドアの横の席だ。その席の端に、毎晩ひとつだけ傘が立てかけてあった。青い持ち手の折りたたみ傘で、骨が一本だけ少し曲がっている。雨の降らない夜にも、傘は同じ場所にあった。
一週間は見ないふりをした。十日目にとうとう駅員さんへ届けると、「お預かりします」と台帳に書きつけられて、わたしは少し良いことをした気分で改札を出た。ところが翌晩、傘は骨の曲がり方まで前の晩と同じ姿で、同じ席に戻っていた。
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三週間目の金曜日、車内は珍しく空いていた。傘の隣には灰色のコートを着た老人が座っていて、膝の上の紙袋を両手で押さえている。わたしが向かいに腰を下ろしかけたとき、老人のほうから口を開いた。
「それ、わたしのなんです」
低い声で、少し照れているようだった。
「毎晩わざと忘れているんですよ。妻が生きていた頃は、この電車で帰るわたしを、駅で傘を持って待っていてくれましてね」
窓の外を、線路沿いの街灯が間をおいて流れていく。老人は紙袋の口を開けて、また閉じた。
「いなくなってから、帰り道がずいぶん長くなりました。でも、忘れ物があれば取りに戻る理由ができるでしょう。理由があれば、明日もこの電車に乗る気になる」
わたしは駅員さんに届けたことを思い出して、顔が熱くなった。
「すみません。わたし、届けてしまって」
「いえ、あれは助かりました」老人は目尻にしわを寄せた。「毎朝、窓口へ取りに行くのが日課になって、顔も覚えてもらえましたよ」
笑っていいのか分からなかった。それでも、つられて少し笑ってしまった。
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電車がわたしの降りる駅に近づいてきて、立ち上がりかけたところで、足が止まった。
「あの、来週の金曜も、この席にいらっしゃいますか」
老人は少し驚いた顔をして、ゆっくりうなずいた。
「ええ。傘を取りに来ますから」
翌週の金曜、青い傘は座席になかった。かわりに老人が両手で持って座っていて、わたしが隣に腰を下ろすと、傘の先で床を軽く突いてみせた。
「今夜は、忘れ物はなしです」
わたしは笑って、降りる駅をひとつ乗り過ごした。
