引っ越しの荷造りをしていたら、本棚の裏から銀色の鍵が出てきた。わたしの部屋の鍵ではない。形が違うし、積もったほこりからして、ずいぶん前からそこにあったらしい。拾い上げると、細い鎖の先に紙のタグが付いていて、青いインクで「三〇二」とかすれていた。このアパートの三階の部屋番号だ。わたしが住んでいるのは二階だった。
管理会社に電話をかけてみたが、返ってきたのは事務的な声だった。
「過去の入居者さまの情報は、お答えできません」
*
捨ててしまえば済む話だった。それなのに、ごみ袋の口を結ぶ手が止まったのは、鍵というものが、誰かにとっての「帰る場所」のいちばん小さな形だと思ったからだ。
その夜、わたしは階段を上がって、三〇二号室の前に立った。表札には知らない名前がある。鍵穴に差し込むつもりはなく、ただ見ておきたかっただけなのに、しばらく立っていると、ドアが内側から開いた。白いセーターを着た、同じ年ごろの女性だった。
「すみません、すぐ帰ります」
そう言いかけて、わたしは手の中の鍵を見せた。
「これ、うちの本棚の裏から出てきたんです。たぶん、こちらの部屋のものだと思います」
彼女は目を丸くして、それから困ったように笑った。
「それ、わたしが昔、前の住人さんに預けた鍵です」
*
半年前まで、この部屋には彼女の祖母が住んでいた。階段の上り下りが難しくなった祖母は、いざというときのために、隣の部屋の住人へ合鍵を預けていたという。それが、二階のわたしの部屋の、前の住人だった。
「その方が引っ越されたと聞いて、ずっと気になっていたんです。でも、鍵のことを誰に聞けばいいのか分からなくて」
わたしは鍵を彼女の手のひらに置き、彼女は両手でそれを包んだ。
「ありがとうございます。これで祖母も、少し安心して眠れる気がします」
部屋の中で、ちりんと鈴のような音がした。振り向くと、棚の上に同じ形の鍵がもうひとつ、青いタグを付けたまま飾られていた。
階段を下りながら、わたしは自分の部屋の鍵をポケットの中で握り直した。誰かに預けるほど大事なものが、わたしにはあっただろうか。新しい部屋でも、隣の人に会ったら、まず挨拶をしようと思った。
