資産家の佐久間老人が、八十八歳で亡くなった。親族たちは遺言書の発表のために、立派な屋敷の広間に集められた。長男は背筋を伸ばして座り、長女は遺産の使い道をそわそわと計算している。次男はあくびを噛み殺して窓の外を見ていて、孫たちは広間の隅でひそひそ話していた。弁護士が封筒を取り出すと、広間がしんと静まった。
「佐久間様の遺言書を読み上げます」
弁護士は白い便せんをゆっくりと広げた。便せんには、たった一行しか書かれていなかった。
*
「冷蔵庫のプリンを食べていいよ」
沈黙。長男が顔をしかめた。
「……は?」
弁護士は咳払いをして、もう一度読んだ。
「冷蔵庫の、プリンを、食べていい、です」
長女がヒステリックに叫んだ。
「冗談じゃありません。父は不動産も株も持っていたはずです。それがプリンですって」
弁護士は淡々と答えた。
「ほかの財産については、すでに生前にすべて処分、または寄付されております」
親族たちは顔を見合わせた。孫のひとりがささやいた。
「ねえ、おじいちゃんの冷蔵庫、見に行ってみようよ」
*
親族たちはぞろぞろと台所へ向かった。大きな冷蔵庫を開けると、ガラスの器に入ったプリンがずらりと並んでいて、ひとつひとつの器に、札が貼ってある。
長男へ。昔、運動会の帰りにいっしょに食べた味。
長女へ。誕生日にこっそり買ってきた味。
次男へ。おまえが初めて「おいしい」と言った味。
孫の分まであった。それぞれの器にそれぞれの思い出が書かれていて、親族たちは黙って札を読み続けた。長男はいつのまにか目を真っ赤にしていた。
「親父、プリンが本当に好きだったよな」
長女もうつむいて、鼻をすすった。
「財産のことしか頭になかった。恥ずかしい」
広間に戻ると、親族たちはそれぞれの席で、無言のままプリンを食べた。甘くて、少しほろ苦かった。弁護士は窓の外を見ながらつぶやいた。
「世界でいちばん短い遺言は、世界でいちばん長い話だったのかもしれませんね」
