日本標準時は東経百三十五度 第3章
標準時の住所は、いつ文字になったか。明治十九年七月十三日、勅令第五十一号が公布された。題名は本初子午線経度計算方及標準時ノ件だ。情報通信研究機構(NICT)も、明治の法令が東経百三十五度の子午線の時を本邦一般の標準時とした、と書く。感覚は、時計はずっと同じだったように思いやすい。制度の側は、公布の日付と施行の日付を持っている。公布と施行は同じ日ではない。標準時の条は、明治二十一年一月一日から動く。日付が二つある。一つは枠を公示した日、もう一つは標準時が動き出す日だ。決めた日と、針が揃い始める日は別だ。公布だけでは、まだ全国のいまは動かない。施行の朝から、一般の標準時として立つ。約一年半のあいだが、公布と施行のあいだにある。先に枠を決め、あとから針を全国で揃える。
条文そのものは短い。英国グリニッジ天文台の子午儀の中心を通る線を、経度の本初子午線とする。経度は本初から東西各百八十度までとし、東経を正、西経を負とする。あわせて、明治二十一年一月一日から東経百三十五度の子午線の時を、本邦一般の標準時とする。三つの決め事が並ぶ。本初、符号、標準時だ。どれか一つ欠けても、経線の時は据わらない。国際子午線会議が一八八四年にグリニッジを本初子午線とした流れのあとで、国内の勅令がその枠を固定する。順序は、国際の協定のあとに国内の一文が来る。会議が先、勅令が後だ。国内だけで突然生まれた数字ではない。国際の本初のあとに、国内の標準時が乗る。歴史物語にする必要はない。日付と一文で地図は足りる。全文の読み上げ講座も要らない。核になる文言は、東経百三十五度の子午線の時、という箇所だ。本初と符号は、その文言を支える土台だ。土台なしに標準時だけを切り出すと、地図がたちまち薄くなる。
御署名原本は国立公文書館のデジタルアーカイブで見える。展示の案内にはしない。原本の写真を追うより、条文の三点を先に持つ。読む核はずっと三点だ。公布が明治十九年七月十三日。施行が明治二十一年一月一日。住所が東経百三十五度の子午線の時。名前の呼び方や、のちの西部標準時、いまの原子時計は地図の続きとして残る。先に持つのは、勅令が子午線の時を決めた、という事実だけだ。物語より日付、展示より文言を先に持つ。いつ決まったかは、公布と施行の二本で読む。何を決めたかは、東経百三十五度の一文で読む。いつと何が揃って、はじめて住所が立つ。住所は感覚ではなく、勅令の一文に固定される。明治の勅令が、子午線の時を決めた。
参考:e-Gov法令検索「明治十九年勅令第五十一号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)」/国立公文書館デジタルアーカイブ(御署名原本)/情報通信研究機構「日本標準時」
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