二十三時の足音

夜の集合住宅の外観。上下に重なる二つの窓に灯りがともり、上の階のベランダに干された白いシャツから水滴が一滴落ちる。

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在宅で翻訳の仕事を始めて三年になるが、この部屋の天井は、毎晩二十三時きっかりに鳴る。とん、とん、とん、と、フローリングを踏む足音が七歩。机に向かっている私の頭の真上から、玄関側の端へ向かって遠ざかり、七歩目でぴたりと止まる。数えはじめて一週間、一歩も増えず、一歩も減らなかった。私はといえば、二十三時の少し前に台所で夕食の皿を食洗機へ入れ、スタートを押してから机へ戻るのが日課で、足音はいつも、私が椅子を引いたころに降ってくる。

気になりだすと、原稿が進まない。最初は、犬か猫が走っているのかと考え、次に、夜勤の人が出かける音かと考えたが、玄関の扉の音は一度もしないし、廊下に出た気配もない。管理会社へ苦情を入れる前に、まず正体を知りたかった。ある晩は仕事を切り上げて、耳を澄ますことにした。七歩のあと、ほんの二、三秒おいて、浴室の換気口から「ピッ」と短い電子音が降ってくる。続けて低い唸りがはじまり、零時が近づくと、天井裏の排水管をごぼごぼと水が下っていき、うちの浴室の排水口まで鳴らして去る。足音の主は、毎晩その七歩のあとで、何かを始めているらしい。手帳の端に、順番を書き出した。足音、ピッ、唸り、排水。

*

翌朝、ベランダで洗濯物を干そうと、サッシをがらがらと開けて、手すりに水滴が落ちているのに気づいた。見上げると、上の階のベランダに、シャツやタオルがずらりと吊られている。まだ濡れていて、裾の先から、ぽたん、ぽたんと私の手すりへ落ちてくる。見上げた首筋にも一滴あたって、私は顔をしかめた。どれも、前の晩に干したものではなく、その朝に干したばかりの重さだった。

昼過ぎに下りた郵便受けには、電力会社のチラシが一枚だけ入っていた。赤い太字で「夜間プラン 二十三時から電気料金がぐっと安くなります」とある。同じ棟の全戸に配られたらしく、隣の郵便受けからも、同じ赤い紙の端がのぞいていた。私は何の気なしに紙を折って、ポケットに入れた。

エレベーターで部屋へ戻る途中、階数表示を見ながら、足音と、電子音と、唸りと、排水管の音と、朝の濡れたシャツとを、頭の中で順に並べてみた。どれも同じ順番で、毎晩くり返されている。

ここまでで、手がかりは出そろっている。足音の七歩は、どこへ向かい、何の前触れだったのか。

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足音の主は、二十三時になると、洗面所へ七歩あるいて、洗濯機のスタートボタンを押しているのだ。「ピッ」はそのボタンの音で、唸りは洗いの回転、ごぼごぼは排水の音、朝のベランダのシャツは、夜のうちに洗い終えて、朝いちばんに干した分だった。電気料金が安くなる時刻をねらって、一秒でも早く回し始める。それが、きっかり二十三時の理由だった。

その晩は、二十三時の少し前から椅子に座って待った。天井が、とん、とん、とん、と鳴る。七歩。換気口から、ピッ。私は思わず、手を叩きそうになった。

翌々日の夕方、エレベーターで上の階の住人と乗り合わせた。三十代くらいの、眼鏡の男性だった。下の階の者です、足音がして、と切り出すと、彼は目を丸くして頭を下げた。

「すみません、うるさかったですか。夜間プランに変えてから、つい」

「いえ、むしろ時計がわりで。洗濯機でしたよね」

「ええ、よくご存じで。……あの、そちらも毎晩二十三時ちょうどに、台所で何か回していますよね。うちの換気口から、ピッて聞こえるんです」

私は、返事ができなかった。同じチラシを受け取った私も、いつからか同じ時刻に、食洗機のスタートを押していたのだ。三年も住んで、そのピッを、彼がどこで聞いていたのか、考えたこともなかった。

その夜の二十三時、私は食洗機の前で、スタートを押さずに指を止めた。天井が、とん、とん、とん、と鳴りはじめる。七歩目で、私のほうがボタンを押した。

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