日曜の午後のカフェは、コーヒーの匂いと食器のぶつかる音でほどよくにぎわっていて、わたしは窓際の席で文庫本の三章目を開いていた。ひとりで過ごす日曜が、わたしは好きだ。注文したカフェオレはまだ熱く、ページをめくる指先まであたたかい。隣の席に、二十代後半くらいの男女が座るまでは、それは完璧な午後だった。
「ねえ、はっきり言っていい?」
女性がそう切り出したとき、わたしの目は文字を追っていたのに、耳だけが勝手に隣へ向いてしまった。
「わたしたち、もう終わりにしたほうがいいと思う」
男性はストローをくわえたまま固まり、アイスコーヒーをずずっと鳴らしてから、重々しくうなずいた。
「……わかった。理由を聞かせてほしい」
「あなた、わたしの話を聞いてないから」
「聞いてるよ。昨日のことだって覚えてる。きみは、駅前のパン屋のカレーパンが好きだって言った」
「それはおととい」
「ほら、覚えてるじゃないか」
「覚えてるだけで聞いてないの!」
わたしは本の同じ行を三度読んでいた。聞かないふりをするほど、会話は一語ずつ耳に刺さってくる。男性は真顔で、女性は涙ぐんでいて、二人とも本気なのに、会話だけがどうにも噛み合わない。
「じゃあ、もう一回だけチャンスをくれ。今から全部聞くから」
「今さら遅いよ」
「頼む。なんでも聞く。コーヒーも奢る。ちなみにこのコーヒー、さっき割り勘って言ってたけど」
「そこじゃない!」
わたしは本を閉じかけて、思いとどまった。閉じたら、聞いていると白状するようなものだ。かといって読み続けても、頭に入るのは隣の会話ばかりで、主人公が何をしているのかさえわからない。カフェオレを持ち上げて飲むふりをし、カップの縁越しに隣を盗み見て、そんな自分がだんだん情けなくなってきた。男性の言い分にも女性の言い分にも、こちらが勝手に採点を始めている。赤の他人の別れ話に、ひとりで審判をしているのだった。
その瞬間、わたしの手からしおりが落ちた。拾おうとして身をかがめ、顔を上げたら、思いがけず女性と目が合った。涙のたまった目で、わたしを見ている。たぶん、本を持ったまま完全に聞き耳を立てていたことが、顔に出ていたのだと思う。
「あの……」
言うつもりはなかったのに、口が先に動いた。
「その方、聞いてないわけじゃないと思います。カレーパンの日付以外は、全部合ってますし」
二人の顔が、同時にこちらを向いた。
「……どちらさまですか」
男性が丁寧に聞いてきた。
「隣の者です。聞くつもりはなかったんですけど、聞こえてしまって。それと、割り勘はたぶん、今は黙っておくほうがよかったです」
「それは、そう」
女性がぷっと吹き出し、あわてて袖で目もとを押さえた。男性は椅子の上で背筋を伸ばして、わたしに深々と頭を下げる。
「ご忠告、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ」
なぜ見知らぬ人と頭を下げ合っているのか、わたし自身にもよくわからなかった。
*
結局、二人は別れなかった。女性いわく、わたしに指摘されて、自分が何に怒っていたのかわからなくなったらしい。男性は男性で、「第三者に冷静に分析されたのは初めてだ」と、妙に感動していた。話し合いは、そのあと三十分も続いた。わたしの冷めたカフェオレは、その間ずっと机の上で出番を待っていた。
会計を済ませて二人が席を立つとき、女性がこちらに向かって、ぺこりと頭を下げた。男性は、なぜか敬礼をした。
ようやく静かになった席で、わたしは文庫本を開き直した。三章目の、三行目から読み返す。しばらくして、店員さんが盆を持ってやって来た。
「あちらのお客様からです」
湯気の立つカフェオレが、新しく置かれた。カップの下には、紙ナプキンが一枚はさんである。
仲裁料です。足りなければ、来週また揉めます。
店の出口に目をやると、ガラス戸の向こうで二人が手をふっていた。
来週の日曜も、この席にしよう。揉めるのは、あの二人にまかせて。
