ミナトの鞄には、その夜も四十一個の夢が入っていた。夢は梨ほどの重さで、藍色の包み紙にくるまれ、振るとかすかに雨の音がする。包みごとに匂いが違い、焼いた栗のものもあれば、古い教室の黒板のものもあった。伝票には受取人の名と寝床の住所、それに種別の欄があって、ミナトはそれを読みながら、屋根から屋根へ渡っていく。
配達には規則が二つある。ひとつ、夢は受取人の寝息を確かめてから、枕もとに置くこと。ひとつ、受け取られなかった夢は包みを開けず、夜明け前に局へ返すこと。開けた夢は中身が漏れて、誰の夢でもなくなってしまうからだ。ミナトは入局して三年、どちらも一度も破ったことがなかった。局の棚に並ぶ返却済みの包みは、どれも埃をかぶったように色が褪せていて、新人のころ、その褪せ方が怖くて一晩だけ眠れなかったことがある。
四十一個目の宛先は、坂の上のアパートの三階だった。伝票には「ハヤカワ ノリコ」とあり、種別の欄には「海(浅瀬)」と鉛筆で書いてある。窓の鍵は開いていた。ミナトは靴下の足で桟をまたぎ、部屋の隅で寝息を待ったが、聞こえてきたのは紙をめくる音だった。
ノリコは起きていた。ベッドの上に座り、膝に帳簿のようなものを広げて、赤いペンで何かに丸をつけている。ミナトに気づいても驚かず、顔を上げて、手もとの紙をまた一枚めくった。
「眠れないの。三日目。置いても無駄だと思う」
帳簿に見えたのは、会社の名前が刷られた書類の束だった。赤い丸は、どれも数字の上についている。机の端では冷めた麦茶が、氷の溶けた分だけ薄い色になっていた。
ミナトは困った。寝息がなければ置けない。それが規則だ。包みを鞄へ戻そうとして持ち上げると、重さが急に増していた。梨ではなく、濡れた砂袋くらいある。匂いは、夏のはじめの、日に焼けた石と潮のものだった。
「それ、私の?」
「はい。海です。浅いところの」
「浅いの、いいね。行ったことないな、海」
「局の規則だと、起きている人には渡せないんです」
「じゃあ、そのまま持って帰る? 全部、ぬるくなっちゃうんでしょう、夢って」
ミナトは返事に詰まった。たしかに夢は、体温に触れて半日もすると、中身の色が濁る。
ノリコはペンを置いた。「ここで開けたら、だめ? 私、寝ないけど、見るだけなら」
だめです、と言いかけて、ミナトは壁の時計を見た。夜明けまで、あと一時間ある。局へ戻れば、夢は倉庫の棚に並び、いずれ別の夢の材料として溶かされる。誰の眠りにも届かないまま消えていく海を、ミナトはこれまで何度か見送ってきた。見送るたびに、鞄のなかで雨の音が、ほんの少しだけ長く鳴った気がしていた。
ミナトは包み紙の結び目に指をかけた。藍色の紐は、ほどくときに、ちりっと乾いた音を立てた。紙が開くと、足もとの床板がじわりと冷え、部屋の隅から波の引く音がして、ノリコの靴下のつま先が濡れた。壁には水面の光が揺れながら走っていく。ノリコは膝を抱えてそれを眺め、ミナトは立ったまま、鞄の紐を握っていた。足首のあたりを、白い巻き貝が一つ、泡と一緒に転がっていった。どちらも何も言わなかった。ノリコが一度だけ、つめたい、とつぶやいて足を引き、それから思い直したように、濡れたほうの足をもう一度、水の中へ戻した。机の上の書類の角が、湿ってゆるく反りはじめていた。
窓の外が白みはじめるころ、海は引いた。包み紙だけが、畳み皺のついた藍色の布になって、ベッドの上に残った。ノリコはまだ眠っていなかった。ミナトは伝票の受領欄に、受取人の署名ではなく自分の名前で「開封」と書き込み、赤い判をひとつ押して、窓から出た。
ベッドの端には、ノリコの赤いペンと、まだ潮の匂いのする包み紙が残っていた。
