終電が着くのは零時四十二分で、三浦はそのたびに、ホームの端から六両目の前まで歩いていく。ドアが開ききったあとの車内は、暖房の埃っぽい熱と、人が座っていた座席の布のにおいが残っていて、足音だけがやけに大きく響く。十一月に入ってからは、ほぼ毎晩、同じ座席に同じ男が座っていた。五十代の半ばくらいだろうか、グレーのコートの襟を立て、鞄を膝の上で両腕に抱えたまま、顎を胸に落としている。
「お客さん、終点ですよ」
肩に触れるまでもなく、三浦が二度目に呼ぶと、男は目を開ける。それから決まって、ああ、とだけ言って、急ぐような手つきで鞄の紐を直し、三浦の顔を見ないまま改札のほうへ歩いていく。三浦はその背中を見送って、車内に残った忘れ物を確かめ、灯りを落とす。この駅に来て六年になるが、手順はそれだけで、それ以上でも以下でもなかった。
駅員室に戻ると、三浦は魔法瓶の麦茶を紙コップに半分だけ注いで飲む。妻は看護師で夜勤の日が多く、三浦が帰る頃には、台所のテーブルに伏せたマグカップが一つ乾いているだけの日もある。起こされる側の人間が、あの男のほかにもこの沿線には何百人もいるのだろうと、三浦はときどき考えたが、考えたところで、翌朝の始発の準備が早まるわけでもなかった。
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その夜は、男が目を開けても立ち上がらなかった。三浦が二度呼んだあとも、膝の鞄をなでるように押さえたまま、窓の黒いガラスに映った自分の顔を見ている。回送の時間が迫っていたが、三浦は腕時計を一度見ただけで、通路の向かいの座席に腰を下ろした。規則では、客を残して車両を閉めることはできない。
「降りたくないんです」
男が言ったのは、車内の暖房が一段、音を変えて切れたあとだった。三浦は、そうですか、と答えた。
「ここまで乗ると、誰かが起こしてくれるでしょう。家だと、起こされないんですよ。朝まで寝ていても、誰も何も言わない。去年からそうなんです」
男は少し間を置いてから、鞄のファスナーを三センチほど開けて、また閉めた。中にはコンビニの袋に入った弁当が見えた気がしたが、三浦は見なかったことにした。
「おれが起こす係ですか」
「そういうわけじゃなくて」
男は首を振った。「ただ、名前を呼ばれなくても、声をかけられるのが、一日に一回あるのと、ないのとでは、ちがうんです」
男の声は平らで、頼んでいるようにも、ただ事実を並べているようにも聞こえた。三浦は返事をしなかった。自分の仕事のなかで、いちばん意味のない部分だと思っていた二回の呼びかけを、そう言われたことが、どこに置けばいいのか分からなかった。窓の外では、構内灯の下で、保線の作業員が一人、ヘルメットの位置を直していた。
「分かりました」と三浦は言った。何が分かったのかは、自分でも言えなかった。男は立ち上がり、鞄を持ち直して、いつもより少しだけ遅い足取りで改札へ向かった。
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翌日の終電に、六両目の男はいなかった。三浦は車内を端まで歩き、網棚を見上げ、座席の下をのぞいたが、そこには空き缶が一本転がっているだけだった。その次の夜も同じだった。三浦は駅員室へ戻る途中、改札の脇の落とし物棚に、見覚えのある定期入れがないかと目をやり、そんなものはないと知りながら、棚の札を一枚ずつ読んだ。引っ越したのかもしれないし、時間を変えただけかもしれない。あるいは、あの夜の話をした翌日から、別の路線に乗り換えただけなのかもしれなかった。どれであっても、三浦には確かめる手段がなかった。
三日目の夜は、風が強かった。ドアが開いても降りてくる客は数えるほどで、車内に残る人はいなかったが、三浦は決まりどおりに六両目まで歩いた。座席には誰も座っていない。灯りを落とす前に、三浦は通路に立ったまま、あの座席のほうを向いて、一度だけ声を出した。
「終点です」
自分の声が、思っていたより低く車内に落ちて、すぐ消えた。三浦は手袋をはめ直し、スイッチを下ろした。
