停留所の最終バス

山あいの夜の無人のバス停。屋根と錆びたベンチだけがあり、停車した古い路線バスの後ろのドアが開いて車内の明かりが地面に四角く落ちる。道端に落ち葉。遠くの谷に点々とした町の灯り。人物は描かない。文字は描かない(行先表示・看板も無地)。

執筆者:

カテゴリ:

約3分で読めます

最終便は二十一時四十分に駅前を出た。乗客はいない。見送りの人が来るかと思っていたが、ロータリーには自販機の明かりしかなかった。私は運転席で日報を開き、乗車人員の欄に「0」と書いた。三十一年、毎晩これを書いてきた。今夜で書き納めになる。

*

路線は駅前を含めて七つの停留所をたどる。役場前、郵便局、八幡下、堰場、月見台、そして終点の山口だ。どの停留所にも人は立っていない。バックミラーの端では、乗客カウンターが赤く光っていた。

0。0。0。

役場前でも郵便局でも、録音の声は律義に案内を流した。「ご乗車ありがとうございました。お忘れ物のないようにご注意ください」。忘れ物をする客が、今夜は一人もいない。私は廃止通知の紙を丸めて、ダッシュボードの隅に押し込んだ。

堰場を過ぎたところで、私はふと思い出した。後ろのドアの上には、降りた人を数えるセンサーが付いている。営業所の整備員は昔から言っていた。月見台でだけ、あれが一回鳴ります。ノイズです、と。私は三十一年、その言葉を信じたふりをしてきた。

*

月見台の停留所には、屋根と錆びたベンチがあるだけだ。降車ボタンは誰も押していない。それでも私はブレーキを踏んだ。三十一年そうしてきたからだ。ドアが開くと、冷たい空気が入り、床の落ち葉が一枚めくれた。谷の向こうでは、町の灯が数えられるほどしか点いていなかった。

私は後ろを振り向かなかった。振り向いたら、いつもの夜が終わる気がした。

センサーが鳴った。

「お疲れさまでした」

自分の声だった。誰に向けたのかは、自分でも分からない。ミラーの端で、一番後ろの座席が沈みを戻していくのが見えた。

*

ドアを閉めて、終点まで走った。最後の三キロは、もう誰も降りなかった。車庫には明かりも人もなかった。迎えの整備員も、今夜は帰ったらしい。エンジンを切ると、耳鳴りがした。整備員の言う「ノイズ」の音だけが耳に残っていた。

そういえば、毎晩あの席に座っていたのは誰なのか。駅前から堰場まで、カウンターは一度も1にならなかった。私は毎晩、その数字を見て日報を書いていた。どこで乗ったのかも、私は知らない。

懐中電灯を持って、車内を見に戻った。足音が自分のものだけで、少しほっとした。一番後ろの座面にだけ、まだ熱が残っていた。三十一年分の日報は、全部「0人」のままだ。会社は来月、その束を裁断機にかけると言っていた。

私はボールペンを取った。乗車の欄は空けたまま、最後の一行に「月見台 降車 一名」と書いた。

ほかの短編小説