傘は電車に忘れて傘立てには忘れない

雨上がりの夕方の電車の座席。シートの端に黒い傘が一本ぽつんと立てかけられている。床に水滴、窓の外は夕焼けと濡れた街並み。他の乗客は描かない。文字は描かない。

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先月、傘を電車に忘れた。今年に入って三本目になる。駅の窓口で特徴を聞かれて「黒くて、持ち手が少し曲がっていて」と答えながら、前の二本もこの窓口に取りに来たのだと思い出した。

ところが傘立てに傘を忘れたことは、覚えている限り一度もない。コンビニでも病院でも、帰りに自分の傘がなかったことはない。同じ傘で同じ人間なのに、場所によって忘れ方が違うのはおかしい。帰りの電車で、理由を考えてみることにした。

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最初に思いついたのは、傘立てには入れる動作があるから、という説だ。電車では、座席の端に立てかけるか膝の間に挟むだけで、手放した感覚が薄い。傘立てでは差し込んで、手を離す。二つの動作があるぶん、体が「ここに置いた」と覚えているのだろう。

二つ目は、傘立てのある場所には、出るときに必ず寄る流れがあることだ。店を出るとき、体は出口より先に傘立てへ向かう。電車にはそういう寄り道がない。降りる駅で立ち上がると、膝に挟んだ傘だけが流れに乗り遅れて座席に残る。

三つ目は少し意地が悪い。傘立てには他人の傘が並んでいる。似たような黒い傘の中から自分のものを探すとき、持ち手の曲がりや柄の汚れまで見ている。電車では他人の傘と見比べる場面がないので、自分の傘をちゃんと見る機会もない。

ここまで考えて、我ながらよくできた説だと思った。帰宅して玄関で傘の水を切っているとき、見落としに気づいた。傘立てに傘を入れる機会は、月に二、三回しかない。電車に乗る回数は、その何十倍もある。回数がこれだけ違えば、傘立てで忘れたことがないのは、単に運がよかっただけとも言える。三つの理由は、その運のよさに後から理屈をつけただけかもしれない。

傘を広げて、玄関の床に置いた。明日は晴れるらしい。傘立てを使う回数が増えたら、私もいつか一本置いて帰るのだろう。その一本はたぶん、黒くて、持ち手が少し曲がっている。

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