夏休みの三日目から、僕は祖母の銭湯の番台に座っている。母に「どうせ家にいても寝てるだけでしょ」と言われて、電車で四十分の祖母の家に置かれたのだ。番台は思っていたより高くて、座ると脱衣所が全部見渡せるはずなのに、実際には仕切りの板と暖簾に邪魔されて、見えるのは入口の下駄箱と扇風機くらいしかない。扇風機は首が半分しか回らず、右半分の籠には一度も風が当たらない。
祖母は午後三時に釜に火を入れて、四時に暖簾を出す。それから十時まで、僕の仕事は料金を受け取ることと、脱衣所の床に落ちた髪の毛を見つけたらモップで取ることだけだ。やることがないので、小銭を種類ごとに積んで、積み終わると崩してまた積む。
最初の客は毎日、田村さんだった。七十を過ぎた男の人で、四時ちょうどに来て、五百円玉をコトンと台に置き、何も言わずに男湯へ入る。出てくるのは五時で、白いタオルを首にかけたまま、番台の前にある牛乳の冷蔵庫から瓶を一本取る。代金は翌日の五百円玉に混ぜて払う決まりらしい。僕が最初の日に「今日の分、先にもらいましょうか」と言ったら、田村さんは眉を上げて、「ばあさんに聞きな」とだけ言った。祖母は奥から顔も出さずに「そのままでいいよ」と答えた。
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六時を過ぎると、岸本さんが来る。近くの保育園で働いている女の人で、赤いかごに自分のシャンプーとリンスを入れて持ってくる。女湯から出てくると、いつも髪を濡らしたまま、番台の横のベンチに三十分ほど座って、持ってきた文庫本を読む。何を読んでいるのかは知らない。カバーが茶色い紙で、題名が見えないからだ。
七日目の夜、岸本さんが本を閉じて、僕に話しかけてきた。
「ここ、九月までなんだって。聞いてる?」
僕は釣り銭を数えていた手を止めた。聞いていなかった。釜の修理に二百万円かかると言われたことは、母が電話で祖母に話しているのを廊下で聞いたけれど、それが「閉める」ことに直結しているとは考えなかった。
「閉めるとは、聞いてないです」
「そうなんだ」
岸本さんは文庫本をかごに入れて、立ち上がった。「決まってないんなら、決まる前にもう少し来ないとね」と言ったけれど、次の日も、その次の日も、来る時間は変わらなかった。変わったのは、帰り際に必ず「ごちそうさま」と祖母のいる奥に向かって言うようになったことだけだった。
その晩、祖母は夕飯のあと釜の前に座って、火の色を見ていた。僕が「閉めるの?」と聞くと、祖母は火かき棒を持ち替えて、「聞かれても、まだ答えが出てないよ」と言った。それで終わりだった。
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九月の話が出てから、客が増えたわけではなかった。田村さんは相変わらず四時で、岸本さんは相変わらず六時で、その間と後には誰も来ない。八時を過ぎると、番台の上の時計の音だけがやけに大きくなる。
九時半になると、祖母は決まって番台のうしろを通って、男湯と女湯の両方をのぞきに行く。それから、湯船の栓には触らず、蛇口を少しだけ開けて、熱い湯を足す。そうしておいて、「あとは、もう誰も来ないから」と僕に言う。
誰も来ないのに湯を足す理由が、僕にはわからなかった。ガス代だって、きっと安くない。母の言葉を借りれば「もう赤字」の銭湯なのに、最後の三十分に、誰のためでもなく湯を熱くしている。
十日目の夜、僕は思い切って聞いた。
「どうして、いつも最後に足すの? 誰も来ないのに」
祖母はタオルを畳みながら、「冷めるでしょう」と言った。それが答えになっているのか、僕には判断がつかなかった。
十時になって暖簾を下ろし、鍵をかけると、祖母は僕に「先に上がって寝なさい」と言った。いつもそうだ。僕は二階の部屋に上がって、窓を開けて、蚊取り線香に火をつける。階段の下で、女湯の戸が開く音がする。
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十一日目の夜は、風呂上がりの岸本さんが帰ったあと、本当に誰も来なかった。僕はいつもより長くモップを動かして、それでもやることがなくなると、番台を降りて、男湯の脱衣所に立った。
祖母は十時きっかりに鍵をかけ、「先に上がって寝なさい」と言った。僕は返事をして階段に向かい、二段目で足を止めた。そのまま音を立てないように戻って、女湯の暖簾のすき間から中をのぞいた。
祖母は、湯船の縁に腰を下ろして、足を湯につけていた。着ているのは普段の割烹着のままで、裾だけをたくし上げている。湯気の向こうで、肩がゆっくり上下しているのがわかった。しばらくして、祖母は割烹着の紐をほどき、タオルを肩にかけて、湯の中へ入っていった。
釜の火は、もう落としてあるはずだった。それでも湯はまだ熱く、天井から水滴が落ちるたびに、小さく丸い音がした。
祖母は家の風呂を使わない。僕が来てからずっと、そうだった。二階にも小さな風呂場があるのに、洗面所の石けんは乾いたままだ。足した湯は、祖母が一人で入るための湯だった。
僕は暖簾から手を離して、番台のところまで戻った。モップが立てかけてあるのが目に入って、それを持って、もう一度男湯の脱衣所の床を端から拭いた。髪の毛が一本だけ、右側の籠の下に落ちていた。扇風機の風が一度も届かない、あの籠の下だった。
拭き終わったモップをバケツに突っ込んで、水を絞る。ぎゅっと絞ると、白っぽい水が足もとに落ちた。僕は番台の電気を消して、階段を上がった。二階の廊下には、祖母の干したタオルが一枚、まだ湿ったまま下がっていた。
