二〇三号室の住人は、ほとんど姿を見せなかった。名前は葉山蒼、二十五歳。アルバイトで生計を立てながら絵を描いていると、凛さんが教えてくれた。朝は遅くまで寝ていて夕方になるとふらりと出かけ、部屋のドアはいつも閉まっている。話しかけたことは一度もなく、廊下で会えば小さく会釈をするだけだった。それなのに、ある日の夕方、ひなたは思いがけず、葉山さんの部屋の前で足を止めてしまった。
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ドアが少しだけ開いていたのだ。隙間から、壁一面に立てかけられたたくさんのキャンバスが見えた。どの絵も同じ構図で、窓から見える空を描いていた。ただ、その空はどれも四角く切り取られていて、窓枠の形のまま、青や茜や藍や白の空がいくつも並んでいる。
「見てもいいですよ」
後ろから声がした。振り向くと、画材の袋を肩にかけた葉山さんが立っていた。初めて聞く声は低くてやわらかかった。
「すみません、勝手に」
「いいんです。こっちがドアを閉め忘れただけだから」
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部屋の中は絵の具の匂いが満ちていた。ひなたは一枚ずつ絵を見て回った。春の朝の空、梅雨の湿った空、夏の入道雲、夕立のあとの虹。どれも、窓から見えたその日の空だという。
「毎日一枚、同じ窓から同じ空を描くんです。二年続けています」
一枚の絵の前で、ひなたは足を止めた。深い藍色の背景に、無数の点がひっそりと散らばっている。
「これは、星ですか」
「ええ。この下宿に来て、初めて夜の空を描いた日です。屋根裏の望遠鏡をのぞかせてもらった、次の晩に」
葉山さんは少し照れくさそうに笑った。
「あのとき、空は描いても描いても描き終わらないものだと気づいたんです」
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「どうして四角く切り取るんですか」
ひなたが聞くと、葉山さんは窓の外をじっと見つめた。
「空は大きすぎて描ききれない。だから窓というフレームを借りて、今日のほんの一部分だけを持ち帰るんです」
「持ち帰る、ですか」
「ええ。誰かに見せるためじゃなくて、今日という日があったことを忘れないために」
ひなたの気持ちがあたたかくなった。それは凛さんの星の話とも、トメさんの望遠鏡とも、どこか似ていた。別れ際、葉山さんが絵を一枚差し出した。夜明け前の薄紫の空だった。
「ひなたさんの部屋の窓から見える空を、描いておきました。よかったら」
ひなたは両手で絵を受け取った。
「ありがとうございます。大事にします」
葉山さんは照れたように頭をかいて、自分の部屋へ戻っていった。
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