六月に入った。大学の授業にも少しずつ慣れてきたけれど、ひなたはふとした瞬間に胸がきゅっと痛むことがあった。港町の朝の市場の匂いや、母の焼き魚の香ばしさが、前触れもなくよみがえるのだ。夜、部屋に戻って、机の上の白い便せんを広げた。メールでも電話でもよかったのに、なぜか、手紙が書きたかった。
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お母さんへ。元気にしていますか。わたしは元気です。大学は思っていたよりむずかしいです。でも、友達が何人かできました。
書き出しはいつも元気な報告だ。心配をかけたくなくて、強がってしまう。ひなたはペンを止めて、窓の外を見た。坂の下の街が、眠り始めている。
本当は、少しだけさびしいです。港の匂いが恋しいです。でも、この下宿にはやさしい人たちがたくさんいます。
ペンが止まらなくなった。凛さんの味噌汁のこと、トメさんの屋根裏の望遠鏡のこと、葉山さんの四角い空のこと。ひとつ書くたびに、胸の中の固い塊がほどけていくようだった。
先週、初めて土星を見ました。輪っかが本当にあって、びっくりしました。お母さんにもいつか見せたいです。
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翌日、手紙を投函して坂を下ると、ポストの口に手紙がことんと落ちる音が、少しだけさびしくて、少しだけ誇らしかった。五日後の夕方、星見荘に帰ると、玄関に段ボール箱が置かれていた。差出人は母だった。開けると、中にはアジ、イワシ、カマスの干物がぎっしり詰まっていて、その上に一枚の便せんがのっている。
ひなたへ。手紙、読みました。ありがとう。あんたがちゃんと一人暮らしをがんばっていること、わかりました。みなさんにお礼に、干物を送ります。土星の輪っか、わたしも見てみたいな。夏に会いに行くからね。 母より
ひなたは便せんを胸にあてた。涙がこぼれたけれど、それはさびしさの涙ではなかった。台所では、トメさんと凛さんが笑っていた。
「あら、ひなたちゃん、立派な干物ね。今夜はみんなで焼きましょうか」
夕日が窓から台所の床をオレンジ色に染めて、香ばしい匂いが広がった。ひなたは、ここがもうひとつの「家」になっていることに気づいていた。
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