七月七日、坂の街は一日じゅう曇っていた。夕方、ひなたが台所に降りていくと、トメさんが一人で短冊を書いていた。細い筆に墨を含ませている。
「ひなたちゃん、あなたも一枚どう」
差し出された短冊に、ひなたは少し考えてから書いた。「いつか、自分の好きなことがはっきりしますように」。凛さんも葉山さんも、それぞれの願いを書いて笹の枝に結んだ。
*
夜になっても空は晴れず、雲の向こうに天の川は見えなかった。トメさんは台所の窓辺で、ぼんやりと空を見つめている。
「夫の命日なの」トメさんがぽつりと言った。「十年前の七夕の夜に亡くなったのよ」
ひなたは黙って、トメさんの隣に座った。窓ガラスに、雨粒の細い筋が流れていく。
「昭一さんは、本当に星が好きでね。若いころ山の天文台で働いて、わたしは事務をしていたの。仕事帰りの夜道で、彼は星座の名前をぜんぶ教えてくれた」
トメさんの声は静かで、その静けさの中に、四十年分の思い出が詰まっていた。
「亡くなる前の日に、屋根裏で望遠鏡をのぞいていたの。体調が悪いのに、どうしても彗星を見たいって」
「彗星、ですか」
「ええ。結局、雲に隠れて見えなかったのよ。でも彼は満足そうに笑ってた。『見えなくてもいい。見ようとした時間がよかった』って」
*
しばらく二人は黙って、雨の音を聞いていた。それからトメさんは立ち上がって、台所の棚から古びた一冊のノートを取り出した。
「屋根裏に残っていたの。彼の観測ノートよ。ずっと開けられなかった」
表紙には、色あせた字で「昭一」と書いてある。ひなたは両手で受け取って、ページをめくった。日付と天候と星の位置が、几帳面な字でびっしりと並んでいる。最後のページには、短い一文が書き残されていた。
トメへ。あの屋根裏で、ずっと星を見ていてくれて、ありがとう。わたしがいなくなっても、星はそこにある。
トメさんはノートを胸に抱いた。目に涙が浮かんでいるのに、口もとはほほえんでいる。
「彼がいなくなってから、ずっとさびしかった。でも、あなたたちが来てくれて、星見荘はまたにぎやかになった」
ひなたはトメさんの手をそっと握った。雨はいつのまにか止んでいて、窓の外の雲の切れ間に、ひとすじの天の川がのぞいた。
この連載を読む
- 前の話:星見坂の下宿 第6話 停電の夜
- 次の話:星見坂の下宿 第8話 母が来た夏
- 全話の目次:星見坂の下宿 目次
