五月の終わりの、風のない夜だった。ひなたが夕食の片づけをしていると、トメさんが台所の戸口からそっと顔をのぞかせた。
「ひなたちゃん。今夜、時間はあるかしら」
「はい、ありますけど」
「約束をひとつ、破らせてもらうわ」トメさんがいたずらっぽく目を細めた。「屋根裏に案内しましょう」
*
廊下の突き当たりの扉の向こうに、急な梯子があった。トメさんは一段ずつ上っていって、ひなたもあとに続く。屋根裏は思ったより広くて、天井の中央が丸くくりぬかれていて、その真下に、古びた大きな望遠鏡が置かれていた。
「これね、夫が作ったのよ」トメさんは望遠鏡の筒を撫でた。「若いころ、二人で山の天文台に勤めていたの。結婚してからここに下宿を開いて、屋根にドームをつけたのよ」
ひなたは息をのんだ。
「じゃあ、このドームは天体観測用だったんですね」
「ええ。でも夫が亡くなってから十年、誰も触ってないの」
トメさんの声は静かで、その静けさの中に、深い愛情があった。
*
トメさんがドームの天井を回すと、きしむ音がして、夜空がまあるくのぞいた。たくさんの星が、手の届きそうな近さでまたたいている。
「のぞいてごらんなさい」
ひなたはレンズに目を近づけた。真っ暗な視界の中に、白い点がぽつんと浮かんでいる。
「あれが、今夜の土星よ」
もう一度のぞきこんで、息を忘れた。白い点はただの点ではなくて、丸い本体のまわりを、薄い輪がぐるりと取り囲んでいたのだ。
「本当に、輪っかがある」
声が震えた。教科書で何度も見たあの姿が、目の前に、本物として浮かんでいる。トメさんは嬉しそうにうなずいた。
「夫も、初めて土星を見たとき、同じ声を出したのよ」
*
しばらくして、トメさんが言った。
「ひなたちゃん。この望遠鏡を、あなたに使ってほしいの」
ひなたはびっくりして顔を上げた。
「わたしが、ですか。何も知りませんよ」
「だいじょうぶ。わたしが教えるわ。夫とわたしが教わったことを、ぜんぶ」
トメさんは望遠鏡の筒に手を置いた。
「この下宿の住人は、みんな星が好きになるのよ。ふしぎなことにね」
ひなたはうなずいた。天窓から入った風が、頬をやさしくなでていく。その夜、ひなたは星の名前をひとつ覚えた。それが、星見荘での新しい日課の始まりだった。
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