入居して三日目の夜、ひなたは眠れなかった。枕が変わったせいかもしれないし、遠い港町の波の音が恋しかったのかもしれない。時計の針は午前一時を少し回っていた。のどが渇いて、音を立てないように部屋を出る。階段を下りて共用の台所の戸を開けると、小さな灯りがひとつだけともっていて、テーブルの隅に、紺色のカーディガンを羽織った若い女性が、湯のみを手にして座っていた。
*
「あ、ごめんなさい。起こしちゃった?」
女性がささやくように言った。顔は疲れているけれど目はやさしく、隣の部屋の人だと、ひなたはすぐに気づいた。
「いえ。眠れなくて。二〇一の柚木ひなたです」
「二〇二の凛です。看護師をしてるの。夜勤の帰り」
凛さんはくすっと笑って、鍋のふたを開けた。
「味噌汁があるけど、飲む? たぶん冷めてるけど」
ひなたがうなずくと、凛さんはお椀によそって電子レンジで温めてくれた。ふわりと味噌のいい匂いが広がる。味噌汁は、トメさんが毎晩多めに作っておいてくれるのだという。夜勤で帰る人や夜更かしをする人のために。ひと口飲んだとたん、ひなたの目の奥がじわっと熱くなった。故郷の母の味によく似ていた。
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「ホームシック?」
凛さんが聞いた。ひなたはうつむいてうなずいた。
「あんなに早く家を出たかったのに」
凛さんは笑わなかった。
「わたしも、初めて一人暮らしをした夜、台所で泣いたことがあるよ。味噌汁の湯気が目にしみたことにして」
ひなたはつい吹き出した。笑ったら、少し楽になった。
「ところで、ひなたちゃん」凛さんが窓の外を指さした。「見て。今夜は空がきれいなの」
窓の外には満天の星が広がっていた。坂の上は街の灯りから離れていて、こんなにも空が暗い。
「ここから見える星が好きで、この下宿に決めたの。夜勤が終わって、この台所の窓から星を眺める。それが、わたしの一日の終わり」
ひなたは湯のみを両手で包んで、星を見上げた。港町でも星は見えたけれど、こんなにゆっくり眺めたことはなかった。
「また眠れない夜があったら、ここにおいで。味噌汁はいつでもあるから」
凛さんの声は、夜の台所にやわらかく溶けていった。その夜、ひなたは布団に入ってすぐ眠りに落ちた。
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