星見坂は、思っていたよりずっと長かった。四月の終わり、ひなたは段ボール二箱とリュックを抱えて坂の下に立っていた。地図アプリの案内は「あと八百メートル」で、そのほとんどが上りだった。大学に入るのを機に生まれ育った港町を出て、親に負担をかけたくなくて、いちばん家賃の安い物件を探した。そうして見つかったのが、この坂の上の下宿「星見荘」だった。
ようやくたどり着いた門の前で息を整える。木造二階建ての、少し傾いた建物で、屋根の上に、丸いドームのようなものがのっていた。
*
「あなたが柚木ひなたさんね。よく来たわね」
玄関の戸が開いて、白髪を丸くまとめた小柄な女性が、湯気の立つお盆を手に出てきた。大家の鷹野トメさん、七十八歳だった。
「坂、きつかったでしょう。まずはお茶を飲んでから。荷物はあとでいいわ」
通された共用の台所には、窓から光がたっぷり入っていた。木のテーブルには使いこまれた湯のみが並んでいて、お茶は少し渋くて、あたたかい。ひなたはほっとして、肩の力が抜けた。
「うちには、決まりがふたつだけあるの」トメさんが指を二本立てた。「ひとつ。夜九時を過ぎたら、台所では静かに話すこと。夜勤で寝ている人がいるから」
「はい」
「もうひとつ。屋根裏には上らないこと」
ひなたは瞬きをした。
「屋根裏、ですか。あの屋根の、ドームみたいな」
「そう。あそこは、わたしの大事な場所なの。ごめんなさいね。いつか、きちんと案内するから」
トメさんの笑顔はやさしかった。けれど、その奥に、ほんの少しさみしそうな影が見えた気がした。
*
二階の部屋は六畳の和室で、窓を開けると坂の下の街の灯りが遠くに見えた。夕暮れの空には、ひと粒の星がもう光っていた。荷ほどきをしているうちに夜になった。隣の部屋から、とん、とんと静かな足音が聞こえ、ドアを開け閉めする音がして、それから台所のほうで水を流す音がする。夜勤から帰ってきた隣人の足音だと、すぐに分かった。トメさんの言っていた「寝ている人」は、きっとこの人のことだ。
布団に入って天井を見上げていると、天井の向こうからかすかな金属の音がした。かたん、かたん。屋根裏だろうか。誰かがあそこにいるのか。ひなたは目を閉じた。初めての夜は、坂の下から吹き上げる風の音と、遠くの犬の鳴き声に包まれていた。星見荘での暮らしは、こうして始まった。
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