落とし物係の八重子さん 第2話 三百円の傘

雨の日の預かり所の傘立てに立てかけられた、そっくりな黒い長傘が二本。

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連載「落とし物係の八重子さん」第2話/全4話(完結) 約3分で読めます

雨の日の預かり所は、傘の匂いがする。傘立てには、いつのまにか黒い長傘が二本そろっていた。どちらも昨日、市バスの中に忘れられていたもので、遠目には、そっくりだ。

「持ち主が来たら、渡し間違えないようにね」

八重子さんは塩大福を口に入れた。午後四時を過ぎたころ、戸ががらりと開いて、スーツ姿の男の人が入ってきた。四十代くらいで、髪がきちんと撫でつけてあって、肩が濡れている。

「昨日、バスに傘を忘れたんですが」

「どういう傘でしょう」と八重子さんが聞いた。

「黒い、長い傘です」

「黒くて長い傘は、ここに二本ありますよ」

男の人は傘立てを見て、少しだけ迷うふりをして、片方を指さした。持ち手が木で、布の張りがつややかな、立派なほうだった。

「これです。こっちです」

「お名前は」

「田中です」

八重子さんはしばらく何も言わずに男の人を見て、それから大福の最後のひと口を食べてしまった。わたしは、傘立てに残ったもう一本のほうを見ていた。持ち手はビニールで、骨がやけに細い。持ち手のところに、値札がついたままになっていた。「300」。

*

「田中さん、こちらに特徴を書いてください」

八重子さんが出した紙には、「持ち主の確認」と大きく書いてあった。男の人は少し笑って、「長傘、黒、持ち手は木」と書いた。外から見て分かることばかりだった。

「内側は?」と八重子さんが聞いた。

「内側、とは」

「傘の中。何か付けていませんでしたか」

「いえ、特には」

「そう。それなら、開いてみてください。確かめるのは、持ち主の権利だから」

男の人は、一瞬だけ動きを止めた。それから、傘を開いた。布の内側、骨のつけ根のあたりに、白い糸で、小さく「さとう」と縫い取りがしてあった。

わたしは息をのんだ。田中さんは、傘の中を見ようとしなかった人だ。見なかったのではなく、見たくなかったのだ。

男の人は、何も言えなくなってしまった。傘の内側にあるのは、田中さんの名前ではない。八重子さんは、ゆっくり続けた。

「傘って、開いてみるまで中身が分からないって言うけど、中身を見ようとしない人が持ち主のわけがないでしょう」

*

男の人は、観念したように椅子に腰を下ろした。

「昨日、コンビニで三百円の傘を買って、バスに忘れたんです。それで、取りに来たら、もうひとつ、あんまり立派なのがあって」

「つい」

「つい。……すみません」

八重子さんは三百円の傘を傘立てから抜いて、男の人の手に持たせた。

「これがあなたの傘。昨日、あなたを濡らさずに家まで連れて帰った傘でしょう。三百円分以上の仕事をしたの。ちゃんと返事をしてあげなさい」

「はい」

「それから、値札は外しなさい。三百円と書いてある傘を、三百円のつもりで使うと、三百円の気分になるの」

男の人は何度も頭を下げて、値札を爪ではがし、ビニールの傘を広げて、雨の中へ出ていった。入れ違いに、小柄なおばあさんが戸口に立った。

「あら、うちの人の傘。昨日からなくて困ってたの」

八重子さんは、縫い取りの傘を、両手で差し出した。

「佐藤さんですね。おかえりなさい」

おばあさんが帰ったあと、八重子さんはわたしに手のひらを出した。

「あの人の大福代、請求しそびれたわ」

「三百円の傘のぶんも、ですか」

「あれは、まけてあげた」

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