雨の日の預かり所は、傘の匂いがする。傘立てには、いつのまにか黒い長傘が二本そろっていた。どちらも昨日、市バスの中に忘れられていたもので、遠目には、そっくりだ。
「持ち主が来たら、渡し間違えないようにね」
八重子さんは塩大福を口に入れた。午後四時を過ぎたころ、戸ががらりと開いて、スーツ姿の男の人が入ってきた。四十代くらいで、髪がきちんと撫でつけてあって、肩が濡れている。
「昨日、バスに傘を忘れたんですが」
「どういう傘でしょう」と八重子さんが聞いた。
「黒い、長い傘です」
「黒くて長い傘は、ここに二本ありますよ」
男の人は傘立てを見て、少しだけ迷うふりをして、片方を指さした。持ち手が木で、布の張りがつややかな、立派なほうだった。
「これです。こっちです」
「お名前は」
「田中です」
八重子さんはしばらく何も言わずに男の人を見て、それから大福の最後のひと口を食べてしまった。わたしは、傘立てに残ったもう一本のほうを見ていた。持ち手はビニールで、骨がやけに細い。持ち手のところに、値札がついたままになっていた。「300」。
*
「田中さん、こちらに特徴を書いてください」
八重子さんが出した紙には、「持ち主の確認」と大きく書いてあった。男の人は少し笑って、「長傘、黒、持ち手は木」と書いた。外から見て分かることばかりだった。
「内側は?」と八重子さんが聞いた。
「内側、とは」
「傘の中。何か付けていませんでしたか」
「いえ、特には」
「そう。それなら、開いてみてください。確かめるのは、持ち主の権利だから」
男の人は、一瞬だけ動きを止めた。それから、傘を開いた。布の内側、骨のつけ根のあたりに、白い糸で、小さく「さとう」と縫い取りがしてあった。
わたしは息をのんだ。田中さんは、傘の中を見ようとしなかった人だ。見なかったのではなく、見たくなかったのだ。
男の人は、何も言えなくなってしまった。傘の内側にあるのは、田中さんの名前ではない。八重子さんは、ゆっくり続けた。
「傘って、開いてみるまで中身が分からないって言うけど、中身を見ようとしない人が持ち主のわけがないでしょう」
*
男の人は、観念したように椅子に腰を下ろした。
「昨日、コンビニで三百円の傘を買って、バスに忘れたんです。それで、取りに来たら、もうひとつ、あんまり立派なのがあって」
「つい」
「つい。……すみません」
八重子さんは三百円の傘を傘立てから抜いて、男の人の手に持たせた。
「これがあなたの傘。昨日、あなたを濡らさずに家まで連れて帰った傘でしょう。三百円分以上の仕事をしたの。ちゃんと返事をしてあげなさい」
「はい」
「それから、値札は外しなさい。三百円と書いてある傘を、三百円のつもりで使うと、三百円の気分になるの」
男の人は何度も頭を下げて、値札を爪ではがし、ビニールの傘を広げて、雨の中へ出ていった。入れ違いに、小柄なおばあさんが戸口に立った。
「あら、うちの人の傘。昨日からなくて困ってたの」
八重子さんは、縫い取りの傘を、両手で差し出した。
「佐藤さんですね。おかえりなさい」
おばあさんが帰ったあと、八重子さんはわたしに手のひらを出した。
「あの人の大福代、請求しそびれたわ」
「三百円の傘のぶんも、ですか」
「あれは、まけてあげた」
