十二月の終わりに、商店街の和菓子屋「福月」の戸に、貼り紙が出た。「長いあいだありがとうございました。今月いっぱいで閉店いたします」。字は小さくて、少し震えていた。
八重子さんは、その貼り紙の前に、三十分立っていた。通りがかった魚屋のおじさんが、声をかけて、返事がなくて、首をかしげて去っていった。わたしが学校帰りに見つけたときには、八重子さんは同じ場所で、ほとんど凍っていた。
「福月が、閉まるの」
「はい」
「塩大福が、なくなるの」
「……はい」
八重子さんは何も言わず、預かり所へ歩いて戻った。戸を開け、電気をつけ、椅子に座って、それから生まれて初めて、というような顔で、大福のない机の上を見つめた。
「落とし物って、取り戻せるものと、取り戻せないものがあるのよね」
「八重子さんが言うと、ちょっと変です」
「だって、わたし、福月の大福を食べない朝が、想像できない」
わたしは何も言えず、お茶を淹れた。預かり所の奥の棚が、目に入った。そこには、持ち主がまだ見つからない落とし物が、ずらりと並べてある。傘、マフラー、鍵、片方だけのイヤリング。その端に、一冊の古いノートがあった。表紙が茶色くごわごわで、白い粉が吹いている。
「あのノートは?」
「三年前に、七番のバス停で拾われた忘れ物。中は見ない決まりなの。表紙の特徴で探すけど、見つからなくて」
「白い粉、何ですか」
「塩ね。きっと、台所で使ってた人の」
わたしはノートを手に取った。ごわごわした表紙の隅に、小さな判子が押してある。丸い、福の字の判子。わたしは、昨日買った塩大福の包み紙を、ポケットから出して、並べた。同じ判子が、押してあった。
*
「八重子さん」
声が、思ったより低く出た。八重子さんは、わたしの手の中の二つを、じっと見た。
「……同じね」
「同じです。このノート、福月のものじゃないですか」
八重子さんは何かを言いかけて、口を閉じた。それからゆっくり椅子から立ち上がって、手を、少し震わせながらノートを受け取った。
「わたし、三年間、福月の大福を毎週食べながら、この棚に、福月のノートを置いてたの?」
「そう、なりますね」
「持ち主のいない落とし物なんてない、って、わたし、言ってたのに」
八重子さんは両手で顔を覆った。わたしは、笑っていいのか分からなかった。肩が震えている。笑っているのか泣いているのか、いまいち区別がつかなかった。
「こずえちゃん」
「はい」
「行くわよ」
*
福月の店内は、夕方の薄暗がりの中にあった。奥にひとりの老人が座っている。八十近いおじいさんで、白い帽子をかぶり、売り場には何も並んでいなかった。八重子さんは、入るなり、カウンターにノートを置いた。
「これ、三年前の落とし物。遅くなって、ごめんなさい」
おじいさんは、ノートを見て、固まった。それから、震える手で表紙を撫でて、ページを開いた。中には、小さな字で、大福の粉と塩の分量が、びっしり書かれていた。
「家内の字です」とおじいさんは言った。「亡くなる前に、書き残してくれた。わたしは、これがなくなってから、同じ味が出せなくなって。何度作っても、どこかが違う。だから、店を閉めようと思ったんです」
わたしは、八重子さんの顔を見られなかった。八重子さんは、背筋をぴんと伸ばして、大きな声で言った。
「それなら、閉めないでください。わたし、毎週食べる人が、ここにいますから」
おじいさんは、ノートを胸に抱いた。それから、わたしたちに深く頭を下げた。
「お礼をさせてください。一生分、大福を」
「それは困ります」と八重子さんは即答した。「落とし物係は、正当な対価しかもらわない決まりなの。大福、一個百二十円」
「それは、安すぎる」
「安くないの。わたしにとっては、世界でいちばん高いの」
おじいさんが、はじめて笑った。
*
一月の最初の月曜日、福月の戸には、新しい貼り紙が出た。「営業を続けます」。
預かり所には、手書きの看板がもう一枚増えた。「おとしもの あずかります (持ち主が見つかるまで) あなたの落とし物は、ここにあるかもしれません」。八重子さんは、塩大福をひと口食べて、わたしに言った。
「持ち主のいない落とし物なんてないの」
「はい」
「持ち主を探す気がなかったのは、わたしのほうだった」
「はい」
「でも、いまは、探してるでしょう」
わたしはうなずいて、自分の大福を、ひと口かじった。しょっぱくて、少し甘くて、とても、おいしかった。
(完)
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